設立の経緯

科学自然都市協創連合は、2019年7月23日、東京大学 生産技術研究所 設立70周年記念事業の一環として、東京大学 生産技術研究所が架け橋となり、「ロケット研究発祥の地」と称するに相応しい歴史的な経緯を備えた千葉県 千葉市・東京都 杉並区・東京都 国分寺市・秋田県 由利本荘市・秋田県 能代市・鹿児島県 肝属郡 肝付町の6自治体とともに設立されたコンソーシアムです。

戦後のロケット開発黎明期、その推進を支えた加盟団体が、ロケット開発の足跡に思いを重ねつつ、コンソーシアムに今日的な意義を積極的に見出し、科学技術の活用と地域連携を通して、活力ある魅力的なまちづくりに繋げていきます。

また、設立当初の加盟団体に加え、科学自然都市協創連合の趣旨に賛同する地域や組織との連携の輪を拡げ、さらなる協創の仕組みを作り上げていきます。

小さな始まりが大きな輪となり、繋がりが繋がりを生む。科学自然都市協創連合に関係するすべての人々とともに、魅力的な社会とまちづくりの実現に向けて、取り組むことを目指しています。


ロケット研究開発の歩み

東京大学 生産技術研究所の糸川 英夫 博士らが進めたロケット研究開発は、西千葉の地(現、千葉市 稲毛区 弥生町)に始まり、荻窪の地(現、東京都 杉並区 桃井)に産業界の同志を得て軌道に乗り、1955年(昭和30年)4月に国分寺の地(東京都 国分寺市 本町)で記念すべきペンシルロケットの水平飛翔公開実験を実施しました。

その後は、西千葉で継続された水平発射飛翔実験を経て、上空への斜め飛翔実験を実施すべく、道川(現、秋田県 由利本荘市)および能代(現、秋田県 能代市 浅内)、内之浦(現、鹿児島県 肝属郡 肝付町)へと急ピッチで飛翔実験の拠点を展開していきました。これら各地は、「ロケット研究発祥の地」と称するにふさわしい歴史的な経緯を備えています。


糸川 英夫 博士とロケット研究開発

わが国の観測ロケットの研究開発は、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる生産技術研究所 元教授の糸川 英夫 博士の発想から始まりました。

糸川 博士は、1935(昭和10)年3月東京帝国大学 工学部 航空学科を卒業後、中島飛行機(株)に入社し数々の戦闘機の設計に携わり、1941(昭和16)年8月同社を退社後は、東京帝国大学 工学部に着任し、1942(昭和17)年4月に生産技術研究所の前身の第二工学部が新設されるとともに同学部に移り、航空機体学科の教官として教育研究に従事しました。第二工学部は1951(昭和26)年4月に閉学されますが、それに先立つ1949(昭和24)年5月に生産技術研究所が設立されました。
敗戦とともに航空研究が禁止となり、糸川 博士は航空研究の対象を失うことになりましたが、新たに音響学を専門として選びました。並行して、航空研究で得た技術を医学に応用し、東大病院の清水 健太郎 教授との共著の論文が海外へも紹介されたのをきっかけに、1953(昭和28)年1月から渡米。アメリカの名門校を歴訪し、シカゴ大学では「麻酔深度測定」の講義を行うなど、精力的にスケジュールをこなしました。

しかし糸川 博士は、アメリカ滞在を半年で切り上げて、同年6月に帰国することになります。シカゴ大学 医学部の図書館で「スペース・メディスン」(宇宙医学)の本や論文を目にし、アメリカの「宇宙研究」の兆しを直接感じ、日本もこの分野に早めに対応する必要があると考えたからです。
当時、1951(昭和26)年9月サンフランシスコ平和条約の調印により、日本の航空研究が解禁になっていました。
糸川 博士は後に、「人類の次の目標として宇宙の開発が日に日に迫ってくるという実感がひしひしと感ぜられた。航空研究禁止の解けた日本でどんな動きがあるにしろ、宇宙への道に目を開くことを忘れるな、と遠く日本の空に向かって心の中でさけびたいような心境で、サンフランシスコから東京へ帰る飛行機に乗った。」と述懐しています。

帰国後は、ロケット研究に邁進することになり、1954(昭和29)年2月に、生研内に糸川 博士を中心とした少人数の研究者によるAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics: 航空電子工学及び超音速航空工学)研究班が結成されました。糸川 博士のロケット研究開発に呼応した富士精密工業(株)とともに研究が開始され、同年10月には早くも第1回の発火試験が行われました。
1955(昭和30)年1月に、AVSA研究班は、昭和32年~33年の国際地球観測年(IGY)に参加することになり、以後ロケット研究が本格化し、開発が急ピッチで進むことになりました。ロケット開発が大規模になったことに伴い、糸川 博士は、1964(昭和39)年に改組により設置された宇宙航空研究所に異動しますが、昭和29年から退官する昭和42年まで、東京大学において、ロケット開発の研究チームの中心として研究開発を終始牽引し続けました。国分寺、西千葉において、小型のロケットを水平に発射し、経済的、効率的に観測を行い、また、世界に例がない山地に打ち上げ実験場を設置するなど独創的なアイデアは、まさに糸川 博士ならではの「逆転の発想」でした。
1958(昭和33)年6月K-6型ロケットによるIGY観測は大きな成果を収め、1970(昭和45)年2月にはL-4S-5型ロケットによるわが国初の人工衛星“おおすみ”の打ち上げが成功しました。糸川 博士の、わが国の宇宙開発への多大な貢献は、広く知られているところです。

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